信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは、問題でないのだ。
今日の活動を以て夏の学習サポートボランティアが終わりました。
7月下旬から今日までの約3週間、貴重すぎる且つ刺激的な毎日に一喜一憂しながらも確実に教職への意欲が高まっていったのをしみじみと感じます。
特に泊まり込みで活動した雨竜郡沼田町でのボランティアは思い出深いものでした…。
人懐っこい子どもたちと、暖かさのある町民の皆さん、アットホームな空間を作り出してくれる先生方…こう、なんというか、畳の上に敷布団を引いてすうっと寝たくなる感じ。分かりますか。ちょっと語彙力が今宵も荒ぶってますけど、包容力が半端なかったということです…。
だって、ボランティア終わったら教育委員会の方が車を出してくれて、沼田町・北竜町観光してくれたんですよ…こんなの惚れますよね。惚れない人は大分心が荒んでると思われますので、近所の公園のシロツメクサを三十秒ほど見つめてからこの記事を見てください。
中学生とも触れ合う機会があったのですか、みんなやっぱり「進路」について悩んでいる様子。偉いなぁ、私が中学生の時は部室のMac PCに夢中で同級生とCG効果使って宇宙とか海の中ではしゃぐ写真とか作ってましたからね、進路のし、すらない生活ですよ。
まぁ、そんなちゃらんぽらんな生活を約18年続けてきた私が純粋無垢な中学生の男の子に「どうして勉強してるんですか?」と聞かれた訳です。ちょっと考えてから、その後の隣の椅子に座りました。
「大学に行きたかったからかなぁ」
『それだけですか?』
まぁね、そうなるよね。
「そこに山があるから登るのだ」と一緒で「そこに大学があるから勉強するのだ」「そこに布団があるからぐっすり寝るのだ」という概念の基いまここに居ます。
教員になりたいから大学に来たわけでも、立派な人間になりたいから大学に来たわけでも、友達が行くから大学に来たわけでもありません。
またちゃらんぽらんな理由ですが、何となくです。もちろんその何となく、という理由を豪語出来るほど経済的にも学力的にも余裕があった訳ではありません。精神的にも。
ただそうでも思ってないとやっていけなかったからですね。もし落ちたら、ってことを常に想定していたのであまり大学に夢を見ると絶望の絶壁でデコピンされるような想像し難い深い悲しみと虚無感に喰われてしまうような気がします。(もちろん浪人がいけないという訳ではありません。ただ、私にはお金も時間も無かったので、大学にいけないことは無限の死であったのです)
そういうのを考え始めると際限ないので、今目の前にあるものだけを見るようにすると、これが急に楽になりました。
「将来の夢はあるのかい」
『わかりません…まだ』
夢があることはいい事ですが、つまりそれはその道しか辿れないということです。例えば、写真家を目指す人はきっと、写真の道をひたすら真っ直ぐに追い続け、その先に輝かしい写真家という職業があると思いますが(どんな職業もそんな簡単じゃないだろうけど、そう信じることに意味があります。多分)きっとその写真家はその道の匠であり、他の道の初心者であります。
私は、自責する少年に「今誰よりも得しているね、色んなことに挑戦できる余裕がある、夢がある人よりかっこいいじゃん」とガッツポーズすると素っ頓狂な顔で見つめていました。
きっと、根っからの真面目なんでしょう。
なんだこのUMAは?と思われたかも知れません。
『ありがとうございます』
少年、UMAは嬉しいぞ…。君はこの先色んなことで悩むだろうが、そんな時こそ肩の力を抜いて、物事を見つめてほしい。
積み上げたものをぶっ壊して、身につけたものを取っ払うスキマスイッチ型の人間もまた若さだが、身を呈してまでぶつかっていく必要は無いのだ。まだ14歳だしね。頑張れ。
信じられているから走るのだ。 間に合う、間に合わぬは 問題でないのだ。