子どもたちが最後にできる抵抗ー9月1日ー
突然ですが、数日後に迫った9月1日、何の日かご存じですか?
9(キュー)と1(イ)で、キウイの日なんていわれたりもしますが、
一年で一番胸の苦しくなる日といってもいいでしょう。
「減少」の文字に騙されてはいけない
9月に入ると、長かった夏休みも終わり、学校も始まれば、友達に会える、部活に専念できる―――。と喜ぶ子どもを多く見かけるが、それが子どもたちの総意だろうか。9月1日、悲しいことに、「子どもの自殺が一番多い日」である。年々自殺者の総数は減少傾向にあるが、中高生の自殺者は年々増加傾向である。
警視庁の自殺の状況資料によれば、未成年の自殺の動機は1位が学校問題*1であった。また、厚生労働省の過去10年分の自殺統計に基づけば、小学生の自殺の動機1位は家庭問題、2位が学校問題となっており、中高生の自殺の動機1位は学校問題、2位が家庭問題と統計が出ている。
家庭と学校にしか居場所がない子どもたちが、命を絶つ前に、SOSを出す前に大人ができることはないだろうか?
夏休みを延長してしまおう
子どもの行動力は、我々大人の想像以上のものであるように思う。過去の小中高生の自殺事件を見ていると、子どもたちは静かに耐え、耐えすぎた反動か、必ず死ねる手法を選び、命を絶っているように見えた。高層階からの飛び降りや、頑丈なものに頼った首つりなどに加え、遺書を残す子どもも多い。
その行動力を、どうにか別の方向に向けることはできないだろうか。
閑話休題、夏休みの課題はいつも最終日に着手していた。毎年毎期「もらったその日に片づけてしまおう」と思うのだが、気づけばゆるりと過ごし、周りの友達から催促されてやっと学習机に向くも、時すでに遅し、お尻に火がついているならまだかわいいものである。案の定、課題の提出期限に間に合わず「やったんですけどね、忘れちゃったので、明日持っていきます」と先生に申し出ると、「勝手に夏休みを延長するんじゃない」とよく言われたものだ。非常に調子ものであったので、私はその時「なるほどなぁ」と勝手に感心していた。夏休み、延長…なるほど、自分の手で延長できるのか。
味を占めたように、そこからは、自分勝手に延長することを覚えてしまった。延長日は少し罪悪感はあるものの、すっからかんのカバンで登校し、教室で自暴自棄になるよりは気分がましであった。もちろん、内申点は定規で線をピンッと引いたように低かったが、卒業はできた。こんな私も入学した当初は「卒業式でスピーチ*2しちゃったりして」と思ってはいたが、実際は、硬いパイプ椅子に腰かけ、見たことのない会長の式辞に居眠りをするような卒業式であった。が、卒業はできた。
義務教育下では、長期不登校による留年はほぼ考えられない。毎日不満を抱えながら、うわべの笑顔を作り、心を病んでしまうくらいならば、延長休暇を取り、ハンモックにでも揺られながらジュースを何杯か飲むくらいがちょうどよいのである。
真面目な子ほどきれいな道にこだわる
子どもたちが最後にできる抵抗が「学校に行きたくない」という意思表示をすることのように思う。だが、不登校というレッテルに囚われるがあまり、本当につらい子ほど、その意思表示は少ないだろう。しかし、「死にたい」と思えば涙が出るのはなぜだろう。亡くなった子どもたちはみな、「生きたかった」はずである。そしてみな、死ぬ直前に「ああすればよかった」とさみしく思うものである。
命を絶つくらいならば、学校なんて行く必要は全くない。
実際、私も心を病み、大学を中退した身であるが、今は好きなことをしながら生活している。何一つ問題はない。
とはいったものの、「これで気まぐれな延長休暇取得者が増えたらどうしてくれる」という声も聞こえてきそうだ。しかし、安心してほしい。夏休み延長の秘儀はゲームでいう裏ルートに値するもので、普通にプレイしているうちは気づけない。裏ルートがないか、深く詮索することができる賢い人のみ、行使できるのだ、まるで私のように。